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  • 2020.03.11

    ブログ「出たとこ勝負」特別編 石井校長 高等学校卒業式 式辞(もともと読む予定だったVer.)

    出たとこ勝負

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2019年度卒業式はコロナウイルス感染症対策のため、例年と異なる形式で行われました。それに合わせて石井校長の式辞も変更されました。ここでは、当初予定していた「幻の式辞」を掲載します。

 思い出づくり、とか、思い出を作ろう、とかいう言葉が私は嫌いです。もちろん私にもたくさんの思い出があります。一番古い記憶は幼稚園。砂場に作られていた落とし穴にハマって、履いていたサンダルがなくなってしまい、途方に暮れている自分を何となく覚えています。こんなどうでも良いことを60年近くたった今でもなぜ覚えているのか、全くわかりません。
 思い出づくりという言葉が使われるのは、たいがい旅行に行くときや楽しいイベントに臨むときだろうと思います。学校の宿泊行事に出発する日、今から楽しいことが待っている。きっと良い思い出ができるだろう。それが思い出づくりという言葉の発想につながることはよく理解できます。「良い思い出を作ろうねぇ」なんて当たり前に使っているだろうと思います。
 でも、考えてみてください。思い出というのは、昔を振り返って、過去を頭に浮かべて、その良さや懐かしさを味わうというものですよね。つまり主体となるのは10年後、20年後の自分です。10年後の自分に懐かしいという気持ちを味わわせるために、今からの旅行を楽しもう、という発想が「思い出づくり」という言葉の中心にあります。私が嫌いなのはこの発想です。未来の自分が主人公であって、今の自分はそのための道具に過ぎない。
 もちろん、そんな大げさなことではない、軽いノリで使う言葉なのでしょうが、でも、人はどうしても未来の、あるいは将来の自分を主体に置いて、今を我慢したり、今を疎かにしたりしてしまうところがある。思い出づくりなんかを目標にしたら、その枠の中でしか生きることのできない、みみっちい時間が待っているだけのように私には思えます。思い出はあくまでも過ぎ去った時間の中からしか生まれない。

 もう、私が今日のスピーチで言いたいことは全部わかってしまいましたよね。
 そうです。みなさん。人間が平等に持っているのは「今」という瞬間だけです。今を全力で生きる。今を全力で楽しむ。いま全力で戦う。それが甘い思い出になるも、苦い思い出になるも、今を本気で生きない限り、たいした思い出になりはしない。過去も未来もいったん取り除いて、いま本当にやりたいことは何なのかじっくり考えて生きてほしい。今日はそのことが伝われば良いなぁと思っています。
 先日、卒業生の成人式のパーティーに呼ばれて出席をしました。2時間余りずっと眺めていましたが、不思議な感覚に襲われました。ここには過去と未来しかないという感覚です。20歳の今を祝っているようには見えなかったからです。
 その会で彼らがやっていたことは、ほとんど写真撮影だけでした。幼稚園時代のクラスでとか、中学時代の部活でとか、というように、かつてのグループで集まっては次々と写真を撮っていく。あの時はあーだった、こーだったと語り合うのは楽しいことですが、ひたすら失われてしまった過去を懐かしんでいるだけのように見えました。
 そして、その日に撮影された写真は「未来の自分のための記録」ということになります。いつかこのパーティーの写真を見て懐かしむというための行為です。20歳の成人としての今はどこにも感じられませんでした。
 これはそのパーティーがダメだったなんて言っているのではもちろんありません。みんなが楽しく過ごしていた、素敵なパーティーでした。でも、それは今を生きるということが意外と難しいことなのだ、ということを私に教えてくれました。
 もちろん刹那的に生きろ、なんていうことを言いたいのではありません。あまりにも今という瞬間がないがしろにされていると思いませんか?と尋ねているだけなのです。

 ホントは学校の人間、ましてや校長がこんなことを言っちゃいけないんですね。なぜなら学校という場所はまさに未来のため、将来のために、今をその準備に費やそう、ということで成り立っているからです。学校は将来の準備のために、今やりたいことを生徒に我慢させたり、不本意な活動をさせたりすることがあります。将来困らないために今は嫌でもこれをやっておけ。そういうことを言わざるを得ない場所だからです。そしてそれは間違ったことではありません。
 でも、敢えて私は言います。中高時代は準備のためだけの時間ではない。人生の大切な本番でもあるのだと。もっともっと今を大切にしようと。そして成城学園高等学校がキミたちにとってそういう学校であったとしたら、とても嬉しい。
 キミたちは高校を卒業して次の一歩に進むことになりました。多くの人は大学に行き、社会人になる準備をすることになります。でも、その時間を、社会人になるための準備としてだけ使うことに私は疑問を持っています。大学生活は中高時代と比べて、自分で決めることの範囲が非常に広く深くなります。その時間を、将来への準備ばかりを目的に行動するのでは、やはりもったいない。ぜひ、大学時代の今を存分に味わい、今を楽しみ、今を生きて行ってほしいと思います。
 将来役に立つかどうかもわからないような学問に熱中しても良い。ひたすらスポーツに打ち込んでも良い。趣味の世界を極めても良い。大恋愛に邁進しても良い。将来への準備を意識はしつつ、今を大切にしてください。そうすれば、目標としての思い出ではなく、結果としての思い出がきっとたくさん手に入るはずです。

 予備校講師の林修さんが「今でしょ」というCMで流行語大賞を取ったのは7年も前のことだそうですが、今でもこの言葉はすたれていないと思います。予備校は、学校以上に将来の準備をするためだけの場所ですから、私の言いたいこととは出発点がかけ離れていますが、純粋に言葉の意味として「今でしょ」は、やはり真理をついている。
 こういうことは人間関係、たとえば友情だとか恋愛だとかいうことでも同じです。たとえ、いつか別れることになるかもしれない恋愛でも、今その人を愛し、同じ時間を共有することが幸せであるならば、決して無駄にはならない。もしかしたら何年後かには苦い思い出として振り返ることになるとしても、いま全力で愛することが生きるということなのだと私は思います。そこからしか本当の愛も生まれない。10年後、20年後の自分ではなく、いま人を愛している自分こそが人生の主人公だからです。未来の自分から逆算していては愛がしぼんでしまいます。
 62歳の私にはもう皆さんのような無限の未来はありません。限られた時間の中で生きるしかない。だからこそ実感を込めて言うことができます。今を大切にしようと。でもそれは決して悲観的に感じて言っているわけではありません。今しか持っていないという点ではキミたちと私には何の違いもないからです。私の今が幸せか、キミたちの今が幸せか。どちらも幸せであることを願っています。
 卒業おめでとう。