第9回
白鳥は哀しからずや空の青海の青にも染まずただよふ
若山牧水
(この言葉は西棟4階にあります)
記憶に残る絵がある。真っ青な背景のド真ん中を細身の青年がひとり仰向けに落下していく図である。中学二年の男子生徒が私の授業で描いた作品だ。A4だったかB5だったか。もう二十年以上前のことである。当時、中学の国語科では二年生で短歌、三年生で俳句の読解授業をおこなっていた。今もおそらくそうだろう。
テキストに掲載されている作品を私が解説したり、生徒たちに感想を言わせたりというお決まりの展開をまずおこなう。加えてテキスト以外の作品もたくさん紹介した上で、ひとつを選んでイメージした内容を絵に描くという課題を与えていた。テストに直結しないお遊び的な課題を担当教員の裁量でおこなう余裕がまだまだある時代だった。
白鳥は哀しからずや空の青海の青にも染まずただよふ
この短歌の中の「白鳥」はもちろんハクチョウではなくシラトリ、すなわちカモメなどの海鳥である。国語の苦手な生徒は句切りがわからなくて、「青海」なんて読んでしまう者もいるが、「空の青」「海の青」に染まることなく一羽の白い海鳥がふわりと飛んでいる、あるいは水に浮かんでいる様を思い浮かべてもらえれば良いだろう。しかしその生徒はカモメを描かなかった。その代わりにTシャツにジーンズの青年が描かれていた。青年は青い景色の中をどこまでもゆっくりと落ち続けていくのである。途方にくれているのだ。若者が世間のしがらみや圧力・常識などに対抗して純粋さを保ち続けることのつらさを描いた作品だと、その生徒は受け取ったのだろう。この短歌から、孤高の青年のどうしようもない哀しみを感じ取ったのであろう。それを見事な絵にした。
科学的に考えたら、周りの空や海がどんなに青くたって、カモメが青く染まるわけがない。しかし「朱に交われば赤くなる」という諺の通り、人は周りの力にどんどん流されていく。気づかぬうちに青や赤に染まってしまった自分にある日、突然、驚くのだ。
先週、学園内の研修会でアクティブラーニングが取り上げられた。ICT利用とのセットで語られることも多いのだが、要は教師から生徒への知識の伝達だけではなく、きちんと頭を働かせて能動的に生徒が学習に参加している授業がアクティブラーニングだ。この絵を描いていたときの生徒の脳は、短歌の読解、人間が持つ理不尽な哀しみへの共感、それを絵という表現形態でアウトプットする技術、と目まぐるしく回転していたに違いない。コンピュータなどなくたってお絵かきひとつでアクティブラーニングができることだってあるのだ。もちろんICT導入の費用を節約しようと思って言っているわけではない。