春休み中なので、学校とは無関係な内容です。学園が発行している『sful』という冊子用のエッセイとして書きましたが、ボツになってしまった文章です。
「私たちってどうせバックパッカーの成れの果てだから」と妻が時々言う。この「どうせ~だから」の構文は諦めたり言い訳したりする時に用いられることが多い。「オレどうせ馬鹿だから」という生徒のセリフには「このテストができないのは当然だ」という開き直りが隠されている。妻が何を諦めているのかは不明だが、怖いので聞かないことにしている。
本当に二人であっちこっち旅をしてきた。若いときにはアジア中心に、アルザス校赴任中はトルコや北アフリカなどによく出向いた。バスや列車で目的地に着くと、妻に荷物を見張らせておいて、私が街を一回りしながら手頃な安宿を見つけてくる。ホテルの部屋は簡素で、ベッドの脚が折れたり、窓枠が外れたりしたこともある。そんな貧乏旅行を楽しんできた。
パキスタンのラワルビンディ(イスラマバード近く)からバスを乗り継いで新疆ウイグル自治区まで行ったことがある。ギルギット、フンザと抜けて、中国との国境は標高5000m近いクンジュラブ峠を越えていく。いわゆるカラコルム・ハイウェイというやつだ。インド・アフガニスタン・タジキスタンなどとの国境線が入り組んだ、ややこしい地域である。道の右手には世界第二の高峰K2が聳える。今はきっとずいぶん整備されているのではないかと想像するが、当時パキスタンは内乱でドンパチやってる時代でもあったし、道路はひどいものであった。ハイウェイと言っても土と砂利の道だ。その上、おんぼろバスのサスペンションは完全にへたっているので、長く乗っていると腰が痛くなる。
40名ほどのバスの乗客は、絨毯などを中国に売りに行くパキスタン人と商売帰りの中国人を中心に、少数の日本人や白人のバックパッカーという顔ぶれである。
バスはよく止まる。エンジントラブルやパンクもあるが、土砂崩れが道路を覆って通れなくなってしまうのだ。その都度バスから降りて道路工事をする。運転手や車掌だけではない。乗客も一緒になって工事を請け負う。そうしなければ先へ進めない。
面白いのは何度か作業をしているうちに、役割分担ができてくることだ。現場監督みたいに指示を出しているパキスタン人。それを補佐するフランス人。黙々とシャベルを動かす日本人。力持ちのウイグル人は大きな石を抱えて運んでいる。後ろから来る車に事情を説明しに行く中国人もいる。一人じゃ動かせない岩をみんなで押して崖下に落としていく。「せーの」と私が掛ける声をウイグル人が真似をする。そしてやっぱりいつもサボる奴はサボっている。いずこも同じだ。
それぞれウルドゥー語・北京語・トルコ語・英語・日本語などみんな勝手に自分の言葉で何か言っているが、何となく通じてしまう。いつのまにか即席の国際的道路工事チームができあがっていく。
声高に国際交流などと叫ばなくても、ひとつの目標に向かって協力せざるを得ない環境に置かれると、とりあえず何とかなるもんだ。単純な肉体労働だからこそ生み出される国際交流。
工事を繰り返し、二度ほどバスを乗り換えて何とか国境のクンジュラブ峠にたどりついた。6月だというのに、雪がだいぶ残っている。検問所の建物以外に雪の中にポツンと一軒だけ掘っ立て小屋が見える。酒屋である。飲酒を禁ずるイスラム教の国パキスタンから、一歩中国に入った瞬間に、みんなが何を望むのかよくわかってくれている。度数の高い中国酒が中心だが、生ぬるいビールやどろどろのワインなんかも置いている。
一本の青島ビールを10人ほどのパキスタン人が輪になって恐る恐る回し飲みをしていた。その土方仲間たちに近づいていき、「アッラーが見てるぞ」と意地悪を言った後、私たちはタシュクルガン行きのバスに乗り込んだ。
学園第二世紀に向けたミッション・ビジョン具体化の意見集を作るとき、国際交流の一環として「学食のおばちゃんや用務のおじさんに外国人を雇う」という提案をした。おばちゃんには「スラマットバギ」おじさんには「アッサラーム・アライクム」って挨拶するんだよ、と言うだけでも面白いと思ったからだ。だが予想通り全く支持を得られなかった。やはり「バックパッカーの成れの果て」にはろくなことが考えつかないのである。