職員室に入ろうとした時、呼び止められた。名前を知らない女子生徒だったが、おそらく中二だろう。「あの、これ、この前お箸借りたので持ってきました」その手には割り箸が5膳握られていた。「おー、偉いなぁ。5倍返しかよ。ありがとね。」名前を聞こうと思う間もなく、さっと少女は廊下を走っていった。
 お弁当のお箸を忘れて職員室にやってくる生徒がけっこういる。毎日というほどではないが、不思議なコトに「お箸忘れの特異日」というのがあるらしく、5人くらい借りに来る日もある。同じ生徒が繰り返し来るわけではないので、720人も生徒がいるっていうのはこういうことなのだろう。
 そういう時、たいがいの教師は「借りるって、使った箸を返しに来んじゃないぞ」とか「高いよぉ。出世払いね」とか、からかいながら渡しているが、「次の人のために新しい割り箸持ってきてね」なんて言う人も多い。生徒の方も「ハーイ」なんて返事をしていくが、お互いすぐに忘れてしまう。
 しかし件の生徒はそう言われたことを覚えていて、ちゃんと返しに来たのだろう。家でもその話題が出て、お母さんあたりに1本じゃなくてもっと持って行きなさい、と渡されたのかもしれない。
 いずれにしてもそういう律儀な生徒を見るのは気持ちが良い。自分が受けた小さな恩はキッチリ返すぜ、という気概が嬉しい。恨みを10倍返しするドラマが流行ったようだが、恩を5倍返しする生徒の姿はもっと清々しい。

 実は昔クラス担任をやっていた頃に、これに似た話をクラス通信に書いた記憶がある。その時も生徒の名前は知らなかったのだが、何組の子かはわかっていたので、私の書いたクラス通信をその生徒のいるクラスの担任に渡しておいた。その担任はホームルームで私の文章を読み上げたらしく、読んでいる最中に顔が真っ赤になっていく生徒がいたそうである。
 割り箸ごときで褒めすぎだと思われるかもしれないが、小さなできごとにこそ本質が宿ることもある。