中1を担任するある教師から聞いた小話。A君とB君との会話。
A「おまえの鼻歌、アニメソングばっかりだな。クラシックとか知らねぇだろ」
B「クラシックぅ?し、知ってるよ。ゴッホだろ」
A「あのさぁ、バッハだよ。小さい〝ツ〟しかあってないじゃん」
 次は私が直接耳にした、CさんとDさん(どちらも中2)の会話。
C「わたし馬鹿の大足なんだぁ」
D「へ~。わたし間抜けの小足だよ」
 本人たちは大真面目に話し合っているわけだが、ハタから聴いていると漫才である。こんな会話を楽しめるのは、教師の特権だ。中学生ともなると家ではこういう顔をなかなか見せなくなるらしい。そして生徒の何気ない会話を楽しいと感じられるのは良い教師の証である。よその学校の実態はよく知らないが、たぶんうちの中学校はそういうゆとりのある教師がたくさんいる方だろう。

 どんなに便利な機械が発達しようが、人と人とが出会い、触れあって、笑ったり泣いたりすることを抜きにして学校教育は成り立たない。機械でも知識は伝達できるが、生徒たちが発するナマの声を聴き逃さない能力は、やる気や幸せという、簡単には教えられないのに大切にしなくちゃいけないエネルギーとつながっている。それは人間だけにできる教育なのだ。小・中・高と年齢が上がれば、学問の部分が増えていくことは当然だが、生身の教育は決してなくなりはしない。
 学校の現場にコンピュータが入り込んで長い時が流れた。計り知れないほどの恩恵を受けているのは確かだが、失ったものも多い。モニターと向き合うのが仕事だとついつい勘違いしてしまう。そんなに綿密な書類を職員会議に配布することが本当に重要なのか?それを作る1時間、生徒と向き合った方が良かったのではないのか。そう問い直せない教師にはなるまい。時代に逆行しているのかもしれない。保守的と言われるかもしれない。しかし、もっともっと生徒の無駄話を聴く学校であってほしいのだ。

 はじめの小話を教えてくれた教師から聞いた別の話。
 入試前日、教室をセッティングしているときのこと。生徒たちが左右の手のひらを机にかざし、「受かれ~」と翌日自分の机で受験する、まだ見ぬ後輩たちに念力を送っていたそうだ。
 生徒の言葉には優しさがあふれている。その優しさをすくい上げられる教師を私は尊敬する。