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  • 2020.03.21

    ブログ「出たとこ勝負」特別編 石井校長 中学校卒業証書授与の会 式辞(もともと読む予定だったVer.)

    出たとこ勝負

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2019年度卒業証書授与の会はコロナウイルス感染症対策のため、例年と異なる形式で行われました。それに合わせて石井校長の式辞も変更されました。ここでは、当初予定していた「幻の式辞」を掲載します。

 嫌いな食べ物を思い浮かべてみてください。そんなもの全然ないよ、という人はとんでもなく幸せな人ですね。
 嫌いな食べ物を表現するときに、みなさんは何て言いますか?
 まずい。と表現する人が多いですよね。例えばピーマンはまずい。しいたけがまずい。と言う人。でもそれは間違っています。なぜなら私にはピーマンもしいたけも美味しいからです。美味しいとかまずいとか言うのは個人の感想であって、あたかもピーマンやしいたけに責任があるかのような言い方は正しくないと私は思っています。
 ですから味が足りなかったり、きつ過ぎたりする時に「このおでんはまずい」とか「このタピオカは美味しい」と言うのは正しい使い方ですが、ピーマンはまずいというのは、間違った言葉の使い方だと私は思っています。
 じゃあ、そういう時には何と言ったら良いのでしょう。ピーマンは好きじゃないとか、しいたけは苦手だとか、すなわち食べるキミたちの側の責任として表現すべきだと思っています。好き嫌いはキミの都合、得意・苦手もキミの都合です。食材や料理の側に非はない。自分が嫌いで食べたくないものを、食べ物の側の責任にしてはいけません。
 本当はもっと厳密に言って貰いたいくらいです。「私にはしいたけを美味しく感じる能力がありません」というのがそれです。
 アレルギーなどで食べられないというのはもちろん好き嫌いとは全く別の話です。
 人間というのは意外と味覚については保守的だそうで、食べ慣れていないものはなかなか美味しいと感じないらしい。これは生物としては当然の能力です。変わったものを食べて体調を崩してしまっては、現代ではさほど大きな問題ではないでしょうが、かつては命取りになったはずです。ですから、食べ慣れたものだけを食べるというのは、人類の進化から考えて生き延びるために重要な要素だったのだろうと思われます。
 でも、現代は違います。我々が手にする食品はほとんど安全で、清潔に調理され、万が一体に悪影響が出ても、医学の力で大変な事態になることはめったにない。つまり理屈の上では何を食べても平気な時代です。そういう時代において、嫌いな食べ物があるというのは大変な損失だと私は考えています。
 実は私は牡蠣が嫌いでした。果物の柿ではなくて、海産物の牡蠣です。子供のころ嫌いだったものも大人になって何でも美味しく感じるようになっていたのですが、牡蠣だけはダメでした。あのプヨンとした食感も甘いような苦いような味も苦手でした。
 でも、先ほど述べたような考えが頭に思い浮かんでからは、これは牡蠣の側の問題ではなくて、オレの問題だ。オレに牡蠣を美味しく感じる能力がないんだ。事実、牡蠣が大好物だという人がたくさんいるではないか。牡蠣を美味しいと思えないのは大損なことではないのか、と思い、一念発起して、牡蠣を食べる練習をしました。で、今ではちゃんと美味しいと思って、食べることができます。
 そしてこれは味覚に限られた考え方ではないと思うわけです。
 慣れ親しんだものだけを受け入れて過ごすことには安心感がありますが、そこに新たな発見はありません。進歩もありません。
 数学はつまらない。とか英語は意味不明だ。とか言う人がいますよね。これも食べものと同じです。数学の問題を解く喜びを知っている人も、英語を学ぶことが楽しい人もたくさんいます。数学の側に責任はありません。ましてやイギリス人はみんな嫌がらずに英語をしゃべっています。単にキミが数学の面白さに気づいていないだけです。英語が話せる喜びを知らないだけです。
 得意なことに一生懸命になるのはとても良いことです。たとえばスポーツに、たとえば楽器の演奏に、と頑張るのは人生を豊かにします。でも私がみなさんを眺めていると、時々、得意なことに打ち込むことで、苦手なことから逃げているんだろうなぁ、というタイプの人を見かけます。サッカー頑張ってるんだから、英語が苦手なのは仕方ないよね。という理屈です。
 何事も得意になれ、と言っているのではありません。面白さに気づくチャンスを手放すなと言いたいだけです。数学は嫌い。と言ってしまった瞬間に、それを諦めることになってしまいます。未知なるものを受け入れる余裕を持つことが大切です。それまでと違う自分を見つけながら、チャレンジする精神を失わないでください。
 人間関係も同じです。
 100%の善人も、100%の悪人もいません。誰にでも良いところ、悪いところがある。だから一言でアイツはダメだとか嫌な奴だと決めつけるのはやはり間違っている。相手の良い面を見つける力も、人生を豊かにしてくれると思います。
 逆に相手が自分では気づかなかった部分を見つけてくれることだってあります。
 私は若いころから、あるコンプレックスを持っていました。どんなコンプレックスかは内緒ですが、何となくそれがいつも頭の隅っこにありました。まあ、夜も眠れないというような激しい悩みというわけではないんですけれども、それを抱えて生きていくしかないと諦めていました。
 ところが最近になって、この年になって、ある人のお陰なのですが、そのコンプレックスから解放されることができた。自分の気持ちがスーッと晴れていくのを感じました。その人の言動によって自分が変わることができたと心の底から感謝しています。その人の言動は、じんわりと私のコンプレックスを溶かして行ってくれました。
 私のような年齢の人間でさえ、自分が変わることを感じることができます。ましてやキミたちのような若い方々は、日々変化していると言っても良い。変われないはずがありません。
 ですから、ピーマンがまずいだなんて言わないこと。アイツは嫌な奴だなんて言わないこと。数学はつまらないだなんて言わないこと。ほんの小さなきっかけで、ピーマンを美味しく食べ、アイツと信頼し合い、数学を楽しめる自分に変われるかも知れません。
 変わること。失敗を恐れないこと。新しい出会いを受け入れること。次の3年間がそんな風に過ごせることを期待しています。
 卒業おめでとう。以上。