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  • 2017.06.07

    言葉の筋トレ20 Cogito,ergo sum(ラテン語) 我思う、ゆえに我あり

    言葉の筋トレ 石井弘之

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第20回

Cogito,ergo sum(ラテン語) 我思う、ゆえに我あり

René Descartes
(この言葉は東棟3階グローバル・ゾーンにあります)

 中学生くらいになると、多くの人が「自分は何のために生きているのだろう」とか「なぜ生まれてきたのか」とかいうことを一度は考えてしまうようだ。ほとんどの場合は「友達に嫌なことを言われた」とか「宿題が終わらなくて学校に行きたくない」とかいう面倒なことから逃げるための言い訳なのだが、それでも生きることの意味と向き合うきっかけにはなる。
 空想力の優れた子は「この世は誰かが見ている夢で、自分はその夢の登場人物にすぎない」とか「自分以外の人は、本当は存在しなくて、自分の感覚が生み出した幻想なのだ」なんていう別世界も描いてしまう。
 ヒロユキ少年もそんなことを、あーだこーだ考えるのが好きな中学生だった。そもそも学校があまり好きではなかったヒロユキ少年は「どーせ死ぬのに何のために頑張らなくちゃいけないの?」とか「いつかは地球も終わるわけだから、すべては無意味だ」とかいうことを言っては、何とかサボる口実を探していた。
 人生の意味を模索したり、世界の根本問題を考察したりする学問が哲学だということを知り、その手の入門書などをパラパラめくったりし始めたのも中学生の頃だった。ヒロユキ少年は怠け者ではあったが、読書と女の子には真面目に頑張っていたのだ。
 そのころ出会ったのが、このデカルトの言葉「Cogito,ergo sum 我思う、ゆえに我あり」である。当時からこのラテン語の言い方で覚えていたのでそのまま書いたが、いま思うとデカルトはフランス人だし、この言葉が記述されている『方法序説』もフランス語で書かれていたはずだから、校舎の壁には「Je pense, donc je suis」と刻めばよかった。なるべく言葉を発した本人が使っていた言語で記載するというのが、私が自分で決めた言葉選びの基準でもあったので、ちょっと残念に思っている。
 いずれにしても、この短いフレーズは頭に残る。コギト・エルゴ・スムなんて呪文のようでちょっと神秘的な力を得たような気分にもなれる。還暦を迎えた今とは違って中学生のヒロユキ少年はシャイだったので、あまり周りに言って回るようなことはなかったが、密かに「コギト・エルゴ・スム、ふふふ」なんて気持ちの悪い笑みを浮かべていたのだ。
 全てを疑い、自分を取り巻く世界の中から余分な認識を取り除いていったとき「自分が何かを思っている」ということだけは否定できない。そして「考えている自分がいる」というところを出発点として世界をとらえ直していくという、そのスッキリした説明が中学生には受け入れ易いものだったのだろう。デカルトにかかっちゃ、頭の仕組みの単純な中学生をたぶらかすくらいはお茶の子さいさいだ。ヒロユキ少年の浅い悩みはこうしてデカルト哲学との出会いによって和らいで行ったのだった。もちろん現代人はその後のカントによるデカルト批判などを知った上でこの言葉をとらえるから、価値は相対化されちゃうけど、それは大人の感覚だ。
 哲学は成城学園が大事にしてきたリベラル・アーツの最も中心にある学問だ。そして現代社会では最も金にならない学問だ。だからこそ価値があると言っておこう。
 そう言えば先月、妻を亡くすという、自分にとってはこれより上がない衝撃的な出来事を味わったが、そのときヒロユキ老人の頭に浮かんだのは「どーせ死ぬのに何のために頑張らなくちゃいけないの?」という問いにはやっぱり誰も答えてくれないな、ということだった。

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