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  • 2025.09.12

    副校長ブログ「ゆめみる」第48号 『津波警報と海の学校』

成城学園には「海の学校」という伝統行事がある。創設者の澤柳政太郎が掲げる「自然に親しむ教育」という柱のもと、中1では海に、中2では山に出かける。海、山それぞれについて、これまでのブログで紹介しているので、読んでみていただきたい。

70年ほど続けられてきたこの「海の学校」は、2011年3月11日の東日本大震災で大きな転機を迎えることとなる。それまでの海の学校は「遠泳」が大きな目的だった。中学1年生は5月の連休明けから体育の授業はすべて水泳となり、いわゆるカナヅチの子でも、教員や成城大水泳部をメインとしたOB・OGたちの協力を得ながら、必ず泳げるようになって本番を迎えていた。成城学園には50m×8レーンの本格的なプールがあり、生徒たちは徹底的に泳ぎ込んで最長2キロの遠泳に臨んでいた。

しかし大震災と、東日本の沿岸を襲った大津波は、浜にすぐ戻れない遠い海のなかに、最大120人もの中学生を放った状態となることを許さなかった。成城学園の伝統行事である海の学校は、一時廃止やむなしとの声があがる事態になった。しかし、伝統の灯を絶やすまいと保健体育科をはじめとした教員の尽力で、2008年からスタートしていたライフセービング実習を中心とする「生命教育」をメインに据えた、新しい海の学校へと変わっていくことになった。

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この夏、7月30日、ロシアのカムチャツカ半島沖で起こったマグニチュード8.8の巨大地震により、北海道から本州にかけての太平洋沿岸を中心に津波警報が発表され、各地で津波が観測された。

その時、私は海にいた。そう、「海の学校」後班3クラスの最終日だったのだ。最終日の生徒の様子を見つつ閉校式に参加するため自家用車で南房総に向かった私は、朝飯を調達しようと浜からほど近いコンビニに車をとめた。たまたまその横を、生徒たちを乗せ浜に移動するバスが通り過ぎていく。生徒たちの笑顔と歓声に会える、そう思っておにぎりを買ってコンビニを出たその時、街中からサイレンの音が聞こえた。流れていたアナウンスはよく聞き取れず、時間を見たものの8時半を回ったぐらいで、正時の時報でもない。

とっさに「まさか津波?」と頭をよぎり、車の中にあったスマホを取り出した。気象庁のホームページには「津波注意報」と黄色に縁どられた日本列島の絵があった。驚いた私はすぐに海の学校スタッフに電話を入れ状況を確認、するとほぼ同時にその情報が入ったとのことで、浜の手前の駐車場、バスの中で待機中とのことだった。
震源がかなり遠いカムチャツカ沖での津波注意報ということだったので、すぐに解除されないだろうと思っていたところ、ほどなく、高台にあるホテルに戻ることにしたとの連絡を受けた。

最終日であったためすでに生徒たちは部屋のチェックアウトは済ませており、さらに海に入る前で水着も汚れていなかったため、そのまま昼食会場のホールの中で着替えさせ、別の活動をさせることになった。私は現地から保護者への一斉配信を行い、生徒の状況を伝えていた。

とその時、けたたましくスマホの緊急アラームが鳴った。注意報が警報に切り替わり、内房地域もその発令対象となったのだ。平日にもかかわらずホテルのロビーには多くの一般客がいたが、ホテルの立地が海面からかなり高台にあったこともあり、皆さん冷静だった。スマホを持っていっていない生徒たちには、アラームはあまり聞こえていないようだった。生徒たちは、ずっと自分たちに付き添ってくれたライフセービングの高校生たちに、感謝の手紙を書いていた。

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閉校式でライフセービング実習の認定証をクラス代表に渡した後、私から生徒たちに話をすることになったが、「最終日なのに、残念だったね…」と言いかけたものの、(何かちがうな…)と。「残念…っていうのとも違うな…、これが自然ということ。自然の前には人間は無力であって、そういう自然の厳しさを経験するのも海の学校なんだよ」と。

今年の海の学校の後班3クラスの生徒たちは、3.11以来のこれだけ大々的に発令された津波警報を海の間近で聞き、「すぐに避難すること」「その時の楽しみや予定されていたことも放って海から離れなければならないこと」を肌で体験できたということになる。色々な楽しいイベントや写真撮影が企画されていた最終日、それでも“正常性バイアス”に惑わされてはいけないという経験は、今回の場を共有した生徒・教員すべてに貴重なことだったと改めて思う。

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