幼稚園生活

コラム「たいこばしくん通信」

今回の「たいこばしくん通信」は特別編です。
彫刻家として活躍されている高橋智力先生から届きました。
写真は造形の指導にいらしたとき、智力先生が撮影してくださったものです。

「好き」の気持ちを支えるということ

 芸術とは「美・真実・愛」の結晶です。
これらの三大要素を込めた作品づくりを通じて、人と人の心の通い合いを育む。
私が芸術活動を続けるなかで、最も大切な目標であり理由となっています。

 我々の生活の中で起きる全ての事象において、それらを見たり聞いたりと体験しながら蓄積していくことで、それはやがて経験として昇華されていきます。そして、この体験や経験に奥行きを与えてくれるものが、芸術だと思っています。我々は体験を重ねることで、様々な知識や経験を得られることでしょう。しかし、それらを「より味わい深く」体験できるとしたらどうでしょう?色々な体験に彩りや艶、そして味わいを加えることができるのが芸術なのです。
 たくさんのものが既に提供されている便利でいて、そして忙しい世の中において、無くても別に構わないもの、無縁でいても何の支障の無いものと、思われがちな芸術ですが、それぞれの長い歴史の中で文化を重んじてきた国々が一様に芸術というものを大切にしようとして来た理由が、ここにあるのではないかと思っています。

 芸術は上手に活用することで、自分達の人生において、出会う人や物事に対して、深い味わいと共にひとつひとつ上手に感じ、活かし合える術であるのです。とくにヨーロッパの国々では、この術を用いる方法に長けていて、私の作品制作拠点となっているイタリアなどでは、どの様な層の人々においても確実に芸術的な感覚を獲得し、そして自分達なりにそれを上手に利用し、それぞれの人生を楽しんでいます。どの様な不況の波が襲って来ても、世界中の人々から何となく「イタリア人はいつも楽しそうだ」と思われている一方で、「美の国、芸術の国イタリア」と称賛されるのは、芸術を生活に上手く利用することで、人にとって豊かな時間を得ているからなのかもしれません。

 それでは、日本においてはどうでしょうか。何故か「難しいもの」「別世界のもの」と、一見普通の暮らしとは縁遠いものの様に思われていないでしょうか。なにかにつけ伝統や職人技能などと混同されてしまうことで、誤解されがちな芸術ですが、むしろ芸術が生活に存在した方が「楽しいもの」「得するもの」であると思っています。さらには、生きていく上でとても「便利なもの」であり、生きている人間にとって、自分の頭で考えているよりも、それはとても身近なものなのです。
同じ人生、どうせなら楽しい方がワクワクしませんか?

 前置きが長くなりました。人生の味わい方の秘訣がたくさん詰まった術、ワクワクを生み出すスパイスとして芸術を学校教育の、それも初期の段階で利用しない手はありません。
では「そのためにできる事はどうあるべきか?」ということを考える時、子ども達の笑顔を前にして、ひとつ大切なテーマとしていることがあります。
 それは「好きという気持ちの種を、どれだけたくさん手渡しできるか」と、いうことです。

 宝石の原石ならぬ、エッジの効いた感性の原石である子ども達から湧き出てくる光は常に純粋で真っ直ぐなものです。
 初めて出会う画材や道具に感動する心や、それらを使い小さな手を一生懸命動かして生まれて来る新鮮なカタチの数々は、子ども達ひとりひとりに秘められた無限の世界からこぼれ出たひと雫が、彼らの心の光と一緒になることで「作品」として、この世の中に生み出されて来ます。その過程は、我々にとってもまさに驚きと感動の連続で、子ども達と一緒に過ごす教室の中はまるで魔法がかかった様にキラキラとした時間が流れています。

 本当に今描いてみたいと自分で思った絵、心からこうつくりたいと思ったカタチは、子ども達にとって紛れもない「真実の表現」です。それを見ている周りの大人が同じ目線で共に感動することで、子ども達は、自ら伝えようとしたことに対して、それが本当に伝わるものだと実感します。その実感はすぐに喜びとなり、さらにそれは自分自身に対する自信へと繋がっていくことでしょう。

 この過程において、私のできることとして優先させていることのひとつが、カタチや色彩の美しさを感じた時には、その自然と湧き出る感覚を共有し、子ども達に「このカタチだよね!」「すごく綺麗な色が出ていいよね!?」と伝えることだと思います。
 美しい発見があった時に、背中をそっと押して次の一歩を促してあげる。嬉しそうに笑顔で振り返る子ども達が、「次はこうしてみたい!」と、声を上げた瞬間を待って、さらに一歩先に進む為の技術的なアドバイスをほんの少しだけ伝えてみることにしています。
「なるほど、そうか!」と心の声が聞こえてくる様な表情をみつめながら、またひとつ大好きの種を拾い上げてくれたのかなと感じるのです。

 こうしてひとつひとつ感動した気持ちを、子ども達自らの意思で私の手から拾い上げてくれることで、たくさんの「好き」の種を子ども達が集めてくれるのです。
 「その種はいつ花咲くのだろうか?」と問われると、在園中にすばやく自分のものにしてしまう子どもがいる一方で、やはり多くの種達は、在園中の3年間という短い期間では芽を出すことすらままならないかもしれません。
 しかし、いつの日か初等学校や中学校高等学校と歩みを進めていく上で、自分の興味をひく何かを見つけた時に、「ああ、そういえばコレ小さい頃大好きだったな、、、」と、自分では半ば忘れかけていた感覚をきっと思い出してくれる日が来るでしょう。「好きの種」はきっとそれをきっかけとして発芽し、一度出た芽はグングンと勢いよく成長していくに違いありません。そしてそれは、その時歩みだす、第一歩の力強さの差となるでしょう。

 子どもに限らず、人が何かをやってみようと思いついた時、何かに立ち向かってみようと思いついた時、嬉しい時も辛い時も、本当に最後の最後、心の真ん中で支えとなるのは、となりの人より優れた技術や知識ではなく、自分はこれが「好き」という気持ちだと私は思っています。

 だからいつ芽を出し、いつ花を咲かせるのか、たとえ分からなくても、一生懸命にその「好き」の種を、ひと粒でも多く子ども達に手渡ししてあげたいと思っています。近い将来きっと芽吹くであろう、「好きの種」を見つけ、拾い上げる為の原動力となる「好きの気持ち」がたくさん湧き出る時間を創り出せるように、芸術という術を利用して子ども達の「好き」を支えられたら良いなと思っています。

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