学園の歴史 / Topics

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【コラム】街の名は学園名から

2020.04.17

創立者は教育界のオピニオンリーダー

 東京都世田谷区成城。幼稚園から大学・大学院までを擁する成城学園は、この閑静な住宅街にあります。成城にあるから、地名を取って「成城学園」という名前になったと思われることが多いですが、実は逆です。成城学園があるから、この場所は“成城”という地名になりました。
 成城学園の前身である成城小学校を澤柳政太郎が創設したのは1917(大正6)年。澤柳、満51歳の時のことです。
 当時、澤柳は教育行政家、思想家として著名人でした。文部省で普通学務局長や文部次官を務め、文部行政の中枢を担って現代にも通じるさまざまな教育制度改革に参画し、また、中学校、高等学校、師範学校、東北帝国大学、京都帝国大学といった幾多の学校長も歴任しました。貴族院議員も務め、文部省退官後も教育関係の委員会等の要職に就きながら多数の著作も残し、教育界のオピニオンリーダーとして活躍していたのです。

学園創立者 澤柳政太郎
学園創立者 澤柳政太郎
スタートは新宿から

 人を育てる本当の教育の場として、かねてから初等教育に興味を持っていた澤柳は、ついに小学校創設に着手します。きっかけは、私立成城学校(現成城中学校・成城高等学校)からの中学校長就任の要請でした。「小学校を付設するなら」という条件で承諾したといわれています。場所は東京市牛込区原町(現東京都新宿区)の成城学校の敷地内。成城小学校と名付けられたこの学校が成城学園の起源です。

成城小学校創設当時の児童および教職員
成城小学校創設当時の児童および教職員
現在地へ、そして街の名へ

 1925(大正14)年、成城学園の現在地に移転します。当時の地名は府下北多摩郡砧村。雑木林ばかりの原野だったそうです。学園が土地を購入、分譲し、街づくりからスタートしました。学園都市の前例がほぼ皆無の時代、札幌やワシントンを参考にしながら、苦労して街づくりが進められ、現在の原型となっていきました。分譲の際には近隣公害防止の規定や街づくりの申し合わせなどがあったそうです。見通しをよくするための交差点の隅切りや、板塀や煉瓦塀ではなく樹木や生垣による外囲いなど、現在でもその名残が多く見られます。

成城学園周辺の土地分譲地
成城学園周辺の土地分譲地
開発初期に学園とその周辺を上空から撮影した写真(昭和初期)
開発初期に学園とその周辺を上空から撮影した写真(昭和初期)
 

 成城学園は、移転の年に幼稚園を、その翌年に七年制高校学校を開設し、成城学校から分離独立します。1927(昭和2)年には小田急線が開通し、当初から成城学園の名が駅名として使用されました。そして、街の発展とともに“成城”という名が浸透し、1936(昭和11)年に一帯が東京市に併合された際、「世田谷区成城町」と地名が変更されました。

小田急線開通当時の成城学園前駅ホーム
小田急線開通当時の成城学園前駅ホーム
移転当時に旧制高等学校の生徒が植樹したと言われる学園正門前のイチョウ並木
移転当時に旧制高等学校の生徒が植樹したと言われる学園正門前のイチョウ並木