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  • 2016.06.03

    言葉の筋トレ 3 「「がんばります」ではなくて「がんばりました」と言える人間になって欲しい」

    言葉の筋トレ 石井弘之

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第3回

「がんばります」ではなくて「がんばりました」と言える人間になって欲しい

三沢光晴

(この言葉は東棟2階にあります)

 プロレスを観に後楽園ホールや相模原体育館にカミさんと通っていたころ、三沢光晴は三番手のレスラーだった。ジャンボ鶴田のライバルだった天龍源一郎がメガネスーパーの作った団体に引き抜かれ、全日本プロレスには鶴田と闘える新たなスターが必要だった。二代目タイガーマスクの覆面を脱いだばかりの三沢光晴に白羽の矢が立ったのだろう。大勢いる若手の中からぐんぐんと頭角を現していった。しかし上には社長のジャイアント馬場、オリンピック出場経験もあるエリートのジャンボ鶴田が君臨していた。我が家ではいつも三沢のことを中間管理職と呼んでいた。苦虫をかみつぶしたような表情で、それでものびのびと仕事をこなしているように見えた。
 当時プロレスはこの全日本プロレスとアントニオ猪木率いる新日本プロレスとが二大団体だったが、派手なパフォーマンスの猪木の方がやや人気が高かったように思える。しかし私は圧倒的に馬場派だった。プロレスをショーと割り切る潔さが好きだった。ショーであることを価値の低いことのように勘違いする想像力のない人たちが「真剣勝負」などと言い出すのだ。私は芝居もダンスもサーカスも好きだが、同じスタンスでプロレスも好きだった。プロレスに台本があって何が悪い。リング下でくつろぐ馬場からTシャツにサインをもらったこともある。
 世紀が変わる直前、全日本プロレスに相次いで危機が訪れる。1999年ジャイアント馬場が61歳で亡くなり、病気療養中だったジャンボ鶴田も2000年、49歳で帰らぬ人となった。
 三番手の中間管理職はとつぜん皆を率いていかねばならなくなった。いったんは全日本プロレスの社長に就任したが、実権を握る馬場夫人と折り合いがつかず、新団体ノアを旗揚げした。38歳、真の意味で三沢は社長となった。多くのレスラーがノアに移籍した。
 「がんばります」ではなくて「がんばりました」と言える人間になって欲しい
 これは社長として三沢が仲間や後輩のプロレスラーたちに伝えていた言葉だ。だが実際は魑魅魍魎が跋扈するプロレス界で、思いがけず先頭を走らねばならなくなった自分を鼓舞する言葉だったのではないか。そしてこの言葉の意味するところは、授業にも、部活にも、行事にも、受験にも・・・学校のあらゆる場面に当てはまる。「がんばりました」と言えるほど充実した中高生活を生徒には送ってほしい。
 9年後、台本にないことが三沢の身に起きた。バックドロップを受け、リングで意識不明となり、搬送先の病院で死亡が確認された。47歳の誕生日まであと5日。まさに「がんばりました」と言える人だった。